完敗    

2018鱒の森1月号掲載

 

「私の記憶しているところではこの過去30年、片手で数えられる人数だけ、勝負できた幸運な者がいます。でもね、誰一人として勝った者はいないんです」

 

お盆を目前にしたこの日、僕はお世話になっている大先輩のところに届け物をするため日高地方へ向かった。雨の予報も外れ、久しぶりに一人でのんびり釣りができるのが何より嬉しかった。

向かう途中には慣れ親しんだ河川がたくさんあるので竿は5ft11inのライトタックルを選んだ。これなら小河川のヤマメから本流の良型まで1本で楽しむことができる。

少し早くに自宅を出て小渓流を少し触ってみたものの、雨が降らないうえに高温だったこの夏にあっては、小さな沢はあまりにも水が少ない。楽しむというにはどの沢も物足りなかった。そこで支流をあきらめ、好調と聞いていた本流を数年ぶりにやってみることにした。

流れは相変わらず強い。

川面の霧とウェーダー越しの冷たさが、川の水温の低さを僕に伝えている。

 

「昔よりちょっと気持ち悪いな…」

 

霧がけぶる河畔林と、駐車スペースにあった『熊出没注意!』の看板に遡行スピードを遅くさせられたけど、過去の記憶を頼りにポイントを探ると各所でニジマスがジャンプする。30~40㎝そこそこのサイズばかりでも、速い流れの押しもあってファイトが心地いい。時間とともに霧も晴れ、しだいにヤマメの反応も良くなった。25㎝くらいだが、色の濃い丸々と太った魚体で、この川のヤマメは相変わらず見栄えがする。

「いいなぁ、静かで。今日は本当に気持ちがいい」

熊への恐怖を飲み込む意味もあり、わざわざ独り言を声に出してみる。

アップで蝉ルアーを打ち込みながら上手の橋をくぐり抜け、最も期待できるポイントに入るとミノーに結び変え、真っすぐに下流を向くように振り返る。自分の下流20mのところで、壊れた人口建造物に倒木が重なり中州となっている。左側は水量豊富。

波打ちながら流れる瀬となっていて、ウェーディングしようものなら命の保証はない。

反対の右側は、水深40㎝以下のフラットだ。穏やかな流れが、橋の下流100mほど続いている。

手始めに結んだダリア45ssで探ってみると、水面下で金色の魚体が翻り竿をバットまで絞りこんだ。中州の左手に下られると取れないので、魚が暴れないようにラインテンションを保持し、そのまま上流側へゆっくり後退。魚を中州から引き剥がす。

うまく右手の浅場へ誘導し、ランディングしたブラウントラウトは50㎝を超えていてドジョウを吐き出した。尾鰭の付け根が太い本流育ちだ。やっぱり強い。

おなじ釣りを繰り返すとまた掛かり、さっきより手応えがいい魚を同じ要領で釣りあげた。今度は57㎝。シングルフックが少し開いていたところを見ると、このあたりがあらかじめ締めこんでいたドラグの限界らしい。

「調子いいね、まだ出そうだな…」

今度は中層を探ろうと思いダイビングダリアに結び変える。フックはテールに自分で結んだチヌ針8号が1本だけ付いている。そして直ダウンのままブルブルとルアーを留めておいた。手元に伝わる激しい振動が止まると同時に、グーンと竿が入り込んだ。

思わず合せたものの、ググッとさらに絞り込まれ、そのまま相手は動かない。

まるで暴れようともしない、このちょっと変わった手応えに最初は「デカいアメマス?」そう考えた。

最低でも中州より5mくらいは上流へひき上げないと、相手が暴れた瞬間に終わってしまう。今まで以上に慎重に、張らず緩めずの微妙なテンションをかけながら時間をかけて上流へと後退する。魚は拍子抜けするほどすんなり付いてきた。安全圏に入ったのを確認し、右手の浅場へ向けて静かに瀬から引き剥がす。

浅場に入った途端、水面がモコッと盛り上がるものすごいサイズの波紋とともに、魚は翻り20mほど一気に下った。サクラマスかと見まごうほどのシルバーメタリック。

そして、またじっと動かない。竿がバットの根元まで曲がっている。0.8号のPEラインが、ヒーンと風に鳴っている。

水深40㎝ほどの浅場でまったく動く気配のない相手に対して、ロッドを絞ったままゆっくりと近づいていき、5-6mほどのところまで間合いを詰める。ラインの先に見えたのは、灰色の背中に黒点が散りばめられたニジマスだった。ただ鮭くらい大きい。頬の薄い朱色と尾ビレの黒点を見せつけるように、シルバーメタリックのボディを再び大きくひるがえすと、引き波を立てながら一気に30mほど下流へ走った。こんな魚が掛かるなんて交通事故だ。けれど、思いのほか頭は冷静だった。

この先100mほど相手に下られてしまうと、流れが絞られて渡渉不可能な大きな瀬になってしまうため、きっとどうにもならない。だからチャンスは3回だ。

下流の瀬までの100m区間にあるのは、チャラ瀬に絡む右手側の岸、その下の中州、そして左手最下流の岸である。

「間違って、どれかの浅瀬に乗り上げてでもくれないかなぁ…(笑)」。

さすがに、この竿では寄せることもランディングすることも不可能そうな相手だけに、僕は呆れ半分でそういう気持ちになっていた。

 

僕が考えた以上に誘導は上手くいった。反転するだろう方向を予測し、ラインを張る方向を4時、8時と変えながらプレッシャーを与えていく。3回とも上出来だった。

最も惜しかったのは、中州近くの浅場に入り込んだ相手の全身が見えた時だ。リールを巻きながら一気に駆け寄った。でも、魚はすぐに体勢を立て直して再び疾走。

けっきょくは瀬の頭まで下られてしまい、ドラグを締めて踏ん張ったもののフッと軽くなった。

「やっぱり針が伸びたか…」

そう思ったのだけれど、水面付近でラインが風になびいていた。

歯で切れたのか、それともスナップの結び目で切れたのか。

「いやいや、すげぇーわ!!強い!」

そう口に出したら、僕の胸はどういうわけか爽快感でいっぱいで、満面の笑顔だったと思う。

 

その昔、友人に「震えるような魚を釣りたいよね」と何気なく話したことがある。

すると「もう童貞には戻れないよ。60㎝、70㎝を超えるの釣っちゃってるんだから。100㎝釣っても大した変わらない」と、なんだか大人びた感じで返されて、僕は妙になっとくしていたものだった。ところがこの時、再びスナップを結ぼうとした指先は震えこそしないけれど、明らかにいつもの感覚ではなくなっていた。時計に目をやる。

これが興奮を収めるときの僕の癖なのだ。あのブラウンのすぐ後だったから、10分も頑張ったんだな…。振り返ると橋はだいぶ上流に見えた。

「うん、帰ろう」

 

少し時間は早かったけれど、すぐにでも確認したいことがあったため、ラインを結ぶことなく届け物に向かうことにする。

あいさつもそこそこに、「あの区間には、魚は海から戻ってこられますか?」と大先輩に切り出した。

「もちろん、ダムのところまで魚は海から戻ります。どうしたんですか?」と聞かれ一部始終を詳細に話すと、

「福士さん、それはほぼ間違いなくスティールヘッドだね」

と、僕の予想通りの答えが返ってきた。

それからしばらくの時間、大先輩の知っているこの河川にまつわるスティールヘッドについての過去の話を聞かせてもらった。

これまで確認できている魚は、どれも僕と同じお盆直前に掛かっていること。過去には著名なアングラー数名が数日間真剣に狙ったけれど、ヒットにすらいたらなかったこと。

先輩方は敬意をこめて“あいつ”と呼んでいること。

「福士さん、私の記憶しているところではこの過去30年、勝負することができた幸運な者は、片手で数えられるだけしかいません。他の河川であれば、たしかに釣っている人もいるし、チャンスは大きいかもしれない。ただしね、あの川であいつに勝った者はいまだに誰もいないんですよ。いやいや数年ぶりにいい話を聞かせてもらいましたよ。この話をしたらうちの仲間もきっと盛り上がりますよ」

 

僕も幸運な敗者の仲間入りだ。

 

千歳に戻って、航空地図を片手に仲間にさっそくクローム色のあいつのことを詳しく話していた。魚とともに150mくらい下ったこと。10分も間頑張ったこと。そしてシビれるようなファイトだったこと。

勝負ごとにタラレバは禁句だが、自然と「タックルが強かったら取れていたのでは?」とか、「もう一人いれば何とかなったかもね?」なんて話になった。

確かにそうかもしれない。でも、狙ったところで掛かる確率もないに等しい交通事故みたいな魚なのだ。仲間の思いはとても嬉しかったけれど、正直な感想を僕は伝えた。

 

いや、たぶんダメだったと思うよ。

俺、不意に掛かった大物とか、そういうファイトではわりかし自信あるもの。

それに、想像以上にうまくいって、あの道具では120点の最高のやり取りができたし。

もうね、そういうんじゃないと思う…。

完敗だよ、完敗。

 

 

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