スピンオフ

2014.鱒の森No22掲載

いつの頃からかよく耳にするようになった「スピンオフ」という言葉。そのままルアーの名前にすれば何だかとても
カッコイイなって僕は思う。本来の意味は派生的に生じたものや、副産物なんかを指す言葉のようだけど、僕は映画や
ドラマの外伝作を思い浮かべる。スターウォーズとか。戦国武将もののドラマだとか。

スピンオフ作品にありがちなのは、対峙する両方の目線から描かれた2作品。
たとえば、織田信長が主役の映画を公開した後に、敵将である明智光秀側の目線から描かれた映画をスピンオフ作品として
公開する。織田側を主役にすれば明智側が悪者になるし、明智側を主役にすればその反対。
動物のドキュメンタリー番組でも、ライオンとヌーとか、シャチとアザラシなんて、視点を双方からのものに変えるだけで見る側の
感情移入は大きく変化する。
お腹を空かせたシャチが主役の時は「がんばって!よかった仕留めた!」なんて思うのに、アザラシが主役の時は「早く逃げて!
危なかったあ……」なんて胸を撫で下ろす。
アザラシを主役としたものだけを観ていれば、シャチはアザラシを襲う悪者という構造が簡単にできあがる。それまでにどういう
経緯があったのかを解説してくれる、シャチ側目線のスピンオフ作品がなければ、生物に興味がある人じゃないかぎりおそらく
シャチ=悪者になる。

僕のよく通う流れの河川敷には、時期になるとセイヨウタンポポがビッシリと咲いている。その背後にあったクワガタの捕れる
鬱蒼とした林はすっかり伐採されてしまったけれど、ニジマスとイワナのいい付き場となっている対岸側の瀬は相変わらずの
一級ポイントで、過去には厳寒期にここで海から戻ったスティールヘッドを釣った人もいる。

この河川敷の主役は、15年くらい前まではヒョロッとしたセイヨウタンポポではなく、子どもの頃からよく知っている「笛」や「水車」を作って遊んだ普通のタンポポだった。

僕は専門家じゃないので、なぜセイヨウタンポポがこんなに増えたのかは分からない。聞こえてくるのは「外来種は強い」という言葉だけ。
たぶん後ろの林がなくなってから増えてきたと思うのだけれど、それが原因なのかはわからないし、誰かが植えたわけでもないだろうから、いつどこからきたのかもわからない。

経緯がよくわかっていないから、この花をどうにかしようという声も今は聞かれない。植物は数が多すぎるし細かすぎてどうにもならないから、きっと面倒なんだろう。

世間は余りにも数が多すぎるものや、よくわからない悪者に対しては、一応の苦言はいうものの、見て見ぬふりをしてお茶を濁す。
そのかわりに、わかりやすい悪者や頑張ればなんとかなりそうな数の相手に対しては徹底的に吊るし上げる。
外来種という悪者にされた生き物には、彼らの有害性や駆除の必要性を訴える誰にでもわかりやすいストーリーは用意されるけれど、それまでに至った物語や、彼らからの目線で描かれるスピンオフが用意されることはない。

 

真夏の夕方にこの川で瀬頭からミノーを引ったくっていく黒点の多いニジマスたちは、父から聞いたところ、子どもの頃には少ないながらも、もうこの河川にはいたそうだ。父の年齢から計算すれば60年くらい前から彼らは必死で子孫を繋いでいることになるだろう。

でも、おそらく彼らやその子孫たちの帰化申請に許可がおりることはこの先ずっとない。

地元の子どもたちの最高の釣り相手になっていても、

田畑の水質維持のための標識魚として生き永らえても、

ニジマスたちの立場はきっと変わらない。

 

一方からの目線によって作られたストーリーだけを大きく上映し、悪者として扱うのであれば、せめてその悪者として吊るし上げられたものたちの歴史やストーリーを詳細に記録した、真実のスピンオフを僕は大勢の人と見てみたいと思う。

評論や批評は、どちらのストーリーも見届けた後でみんなでゆっくり語ればいい。
セイヨウタンポポのスピンオフ、ニジマスのスピンオフ、どこに悪者がいるのか、僕らはまだ誰も知らないはずだから。

 

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