対岸のアーモンド

2010.鱒の森No7掲載

どこかで「巴投げした」とか「鎌で撃退した」なんて話を聞いたことがあるし、ウィリー・ウイリアムスなんかは素手でヤツと
対峙している。釣り人のあいだでも「全然気にならない」とか「釣り人が襲われた話は聞いたことがない」なんて言う人もいる。
けれど、臆病な僕にしてみればそれって強がりでしょ?と思ってしまう。

 こんなふうに、ちょっと悲観的にクマのことを考えてしまう僕には、実はもう20年近くも前に頭に刷り込まれてしまったトラウ
マがある。それは1頭のヒグマによって植え付けられたものだ。

 その日の僕は、春シイタケと釣りが目的で珍しく1人で山に入っていた。
こぶしの白い花が砕けるころになると、無数のシイタケが出る大きなナラの倒木があり、その枝葉が飛散している斜面の下に、
雰囲気たっぷりの流れが走っていた。中学生のころ、父と一緒に来たときに渓流竿を拾ったこともある、僕の秘密の場所だ。
ヒグマの出る可能性がある場所なのは教えられていたけれど、今まで遭遇した経験なんてなかったので、このときの僕は
少しなめた気持ちで、たしかクマ鈴も付けずに斜面を下っていたと思う。

 河原のない流れの幅は、片側二車線の高速道路を少し広くしたくらいで、水深があって流れはとても強い。6フィート6インチ
のスピニングロッドに結んだブレットンは、そんな流れの真ん中あたりまでしか届かなかったので、スプーンに取り替えようか
迷いながら数投した時に、なぜかスッと対岸の蕗原の奥の、山葡萄の蔦の茂みに目がいった。

 まだ葉は付いていないものの、グチャッと蔦があちこち絡まっている茂みの隙間に見えたのは、こっちをジッとうかがっている
茶色い2つのアーモンド。目だ。結構な距離があったはずなのに、目の動きまでがハッキリと見えたような気がした。腰回りがゾ
ワッと寒くなり、今まで見たこともないくせに一発で「うわぁ!」と正体が分かった。
「どうしよう、どうしよう」気持ちがオタつきながらも、怖くて目が逸らせない。僕はそのままリールを巻き続けていた。

 ティップに帰ってきたブレットンが「ガチャ」とトップガイドにぶつかった。それがきっかけで「逃げなきゃ」というスイッチが
僕のなかに入った。しかし、「目をそらすな」「動くな」「静かに後ずさりをしろ」なんてことを以前から聞いてはいたけれど、
実際にこういう場面に出くわすと、ハッキリ言って動けない。それでも早くその場から離れたくて、下りてきた斜面を最短距離で
2、3歩ごとに後ろを振り返りながらゆっくり登っていくと、バキバキッという音が背後から聞こえた。恐る恐る振り返るとそこに
ヒグマが全身を出していた。

 顔は、あの有名な「熊出没注意!」のような丸っこいタイプじゃなくて、犬のように細長いタイプだった。陽に体が照らされて、
首の周りには凄くきれいな金色の輪が光っていた。目だけでも怖かったのに、全身をもろに見てしまうと恐怖はさらに倍増する。
「絶対川を渡ってこっちにくる!」まるでジェイソンやフレディにねらわれた女学生のように、恐怖心で一杯になった僕の頭には、
ヒグマとのあいだを隔てている川の流れなんて存在しなくて、すぐにでもヒグマが飛んでくる感覚があった。

 あと少しで斜面の頂上だというところで「グモォォッフ!!」という牛とそっくりな唸り声が響いた。それは耳というより後頭部に
がつんと響いてきた。
もう半べそ状態になりながら、車まで50mほどの落葉松の林を必死で抜けている途中、何度もサオや着ていたヤッケが枝なん
かに引っ掛かり、それでモタついていると、遥か後ろのほうでガサガサバキバキと枝が折れる音が激しく鳴り始めた。

 土まみれになりながら、必死で見通しのいい林道に駐車した背の高いRV車に乗り込むころには、竿先は折れていて、着てい
たヤッケもボロボロ。エンジンを掛け、早くその場を離れればいいのに、車に乗り込んだ安心感と怖いもの見たさで自分の戻って
来た方向をしばらくうかがっていると、少し見当違いの方向でササ籔が揺れ、ヒグマの背中らしきものが見えた。クラクションを
鳴らすと、スッと笹籔から頭を出してすぐに見えなくなった。ヒグマはどうやら先回りするつもりだったようだ。

 車に乗り込んでから時間があったので、僕とヒグマの距離はかなりあったのだろう。けれど、やっぱり川を泳いで渡り僕の後を
付いて来ていたのだ。ハッキリ言ってやばかった。

 そんな最初の遭遇体験で、ヒグマという恐怖が完全に刷り込まれてしまった僕は、クマに対する神経が敏感になり「大袈裟だ
ねえ」なんて冷やかされることもある。けれど、そんなことは気にかけず、今ではちょっとした山菜採りや釣りの時でさえ、鈴や鉈を
携えるようになり、深い山に入るマイタケ・タケノコ採りの時などは、チャグチャグ馬コばりのスズの音を掻き鳴らし、なおかつ絶対に
1人では行かない。それでも、時には嫌な思いをすることがあるのだ。

 そんなにヤバイなら行かなきゃいいだけの話なんだけど、人間は欲深い生き物だから難しい。僕は大袈裟で臆病なくらいが山
に入るにはちょうどいいのだと思っている。

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